大谷吉継の聞き取り調査
以前に紹介した もう一つの吉継殿の首塚について 身辺調査してきました以前に紹介したblog↓https://rekijoshi.hatenablog.com/entry/2020/01/10/232707関ヶ原から揖斐の春日村に抜ける峠にある吉継の首塚春日に下った所には古屋という村があるそこに居る おばちゃんに話しを聞いた 確かに昔からの言い伝えで吉継の塚があると聞いていると言っていた...
View Article森蘭丸・坊丸・力丸の供養
蘭丸の資料を買った時に気になる場所があり そこへ以前に行ってきましたある森蘭丸の資料の中にこう書いてある妙向尼(蘭丸の母)は本能寺で亡くなった最愛の三人の息子の弔いを兼山城北東の可児郡伊岐津志村中野(現...
View Article浅井長政 浅井氏の墓所(徳勝寺)
場所は 滋賀県長浜です前回行った時は御住職お留守でしたので 今回はどうかな?思って行ったらおりました(笑)早速お話しを聞くお墓は 浅井亮政 久政 長政が並んであります まずは御参りその後本堂に案内されて長政の生い立ちを話していただきました。とてもお話好きな御住職で ずっと喋ってました(笑) とても楽しかったです私「今 お墓の中には長政の御遺骨は入っておられるのですか?」 住職「いや 入ってない...
View Article前田利家出世の地を巡るpart2➖荒子城
場所は愛知県名古屋市中川区荒子です利家はここで生まれたとされていますが 出世の地については前田城説もあるのでハッキリとはわかってはいません 幼少期をここで過ごしていたとは言われていますのちに利家の嫁となる お松であるが尾張沖ノ島村(愛知県あま市)の生まれで 林氏常信の娘として生まれました 当時は相当な評判の郷主であったため 沖ノ島に勢力を伸ばそうとしていた清洲の織田家から睨まれておりました...
View Article福島正則の足跡を辿る
場所は愛知県あま市甚目寺です猛将と言われた男 福島正則豊臣家に仕え 数々の武功を挙げてきました どんな時でも秀吉 秀頼の事を想い人生を賭けてきましたそんな正則の産まれし場所に行き 足跡を追ってきました父は市兵衛正信 母は秀吉の叔母にあたる人で 正則の幼名は市松と言いう幼少期は甚目寺観音の釈迦院で読み書きを学ぶ 12才の時 尾張国を襲った大地震により甚目寺観音が倒壊し 正則も復旧作業に加わったのだが...
View Article関ヶ原合戦 長束正家陣跡
西軍に与した正家毛利秀元と吉川広家と共にに南宮山(垂井町)に布陣し合戦前には浅野隊と南宮大社付近で交戦します。池田輝政と銃撃戦をしたが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると撤退します。このとき島津隊の撤退を助けるため道案内に家臣を遣わしたとも言われます。どんな時でも気遣いの出来る男だったようです。もう少しどのような人だったのか説明します。正家は三成のように頭...
View Article"信玄公はここで終焉したのか…"福田寺
場所は愛知県設楽町田口です信玄公の終焉の地の場所は何箇所か有りハッキリとはわかってはいない その中の一つに福田寺があるその福田寺に行き話を聞いてきました 元々福田寺は信玄公の宿泊地であり、戦が有ると、ここによく宿泊していたのだそうだ そんな折"野田城の戦い"にて信玄公は容態を悪くし福田寺にて何日か療養をしたのだが容態が悪化して息を引き取ったのだそう死因については・病気 ・鉄砲の流れ弾にあたった...
View Article"春照八幡神社"三英傑の勝利の神様
場所は滋賀県米原市春照です姉川合戦の前に織田信長の徳川家康が戦勝祈願賤ヶ岳の戦い前に羽柴秀吉が戦勝祈願した場所です 三英傑が戦勝祈願をし戦に勝っている!ここは凄い神社だよ⛩
View Article"春日神社"石田三成の祈願所
場所は滋賀県米原市世継慶長5年、石田三成が挙兵して美濃に出立する際、この春日神社で戦勝祈願をし一株の藤を自ら植えたと伝わる又、三成の家紋である"下り藤"もここからのものだと考えられる参拝者用の駐車場は無いので近くに世継会館があるので、そこに停めさせてもらうと良いかと思います
View Article犬千代[前田利家]生誕の地を巡る(速念寺)
場所は名古屋市中川区ですまず向かったのは利家が産まれたと言われる前田城(速念寺)です本堂をよく見てください! 実は利家の兜をデザインされて建てられました まさに利家の兜‼︎いつ頃建てたのかご住職に聞くと1964年の東京オリンピック後で 以前の本堂は別に燃えてしまった訳ではないとの話でした実は この本堂のデザインは安土城復元図を手がけた有名な内藤昌さんだそうで これ又ビックリ!...
View Article"八幡神社⛩"秀吉の安産祈願所
豊臣秀吉が秀頼誕生の際に安産祈願した神社です。ここにある菩薩杉は秀頼が産まれだ御礼に植えたと伝えられ、地元では「豊公菩薩大杉」と、言われていますなかなか子供の出来なかった秀吉からしたら、1人目を病気で亡くし、2人目が出来て、どうか無事に産まれて来てくれる事を切に願ったでしょうね🗺滋賀県米原市西山豊公菩薩大杉
View Article武田信玄の御遺骨(龍雲寺)
場所は長野県佐久市です佐久市にある西念寺の仙石秀久の墓参りをした時に御住職が「武田信玄のお寺ありますよ!」って龍雲寺さんを教えてくれました西念寺から歩いて7分くらいの場所に龍雲寺さんがあります 思わずビックリ!勿論家紋は武田菱!さて中に入って行き御住職さんを呼び出す(笑)出て来てくれたのは奥様なぜここに武田家ゆかりのお寺があるのか色々聞いていたら...
View Article典厩寺 武田典厩信繁の墓所
場所は長野県長野市篠ノ井です川中島の合戦の際、武田信玄の弟である武田信繁はこの寺を典厩本陣として出陣したが、この激戦の中、兄信玄の危機を救う為、自らの名を大声で名乗り敵陣に討ち入ったと伝わってます「わたしの事は心配なさるな、それよりわたしが敵を防いでいる間に勝つ算段を」との伝言を急使に託して…それが信繁の最後の言葉となります…37歳でしたそして、その後信繁の亡骸はこの寺に埋葬されたと言われます信玄は...
View Article武田信玄公終焉の地
場所は長野県下伊那郡根羽村横旗です三河攻めの折り信玄公は三河の野田城攻撃中に肺肝を患い根羽村で最後を迎えたと言われています ここに信玄塚があり村人にはそのように伝わっている事も確かです『甲陽軍艦』53歳で天正元年 4月12日 三河美濃 信濃三ヶ国の間ねばねの上村と申す所にて御他界とあり 信玄の死に際して哀悼の意を込めて風林火山の旗を横にしたので...
View Article"赤かべの城" 苗木城の昔話
苗木城にはこんな昔話が残っています木曽川が左に曲がって渕がある底もわからない深い渕だ昔そこに竜がおったその竜を見た人がおると言うが、その人の話によればこうだ二日も三日も槍のような雨が降り続いて、それはやっと小雨止むと川の上に霧が立ち込める川の幅いっぱいに霧が立ち込め、それが川の形のままうねっておる、川も白い竜のようじゃが、そこから出し抜けに白い竜巻が起こって空に登った。それがほんと竜じゃった、銀の髭...
View Article馬場信春(信房)教来石民部屋敷
場所は山梨県北杜市白州町鳥原です馬場美濃守信春の出自は美濃の土岐氏一族という説と武田氏一族という説の2つがあります土岐氏説は土岐光衡の子孫が教来石村に土着したという説ですここ山梨には土岐氏が美濃から武田を頼って行ったという話は多々あります 元に甲斐に住む土岐氏出は多いです武田氏説は一条信長の孫 広政が教来石姓を名乗ったことに始まります 一条氏は他の武川衆の祖でもあり...
View Article大桑城のむかし話
山県郡の大桑に金鶏山という山がある、昔この板垣に大桑城というお城が建っていたここに美濃国守であった土岐頼芸が逃げ込んできた斎藤道三に稲葉の城を追われたからである頼芸を一気に滅ぼしてしまおうと道三の軍勢は長良川を渡り金鶏山の南の麓にある栢野が原まで押し寄せてきた下から見上げると大桑城はいかにも小さく見すぼらしく思えた勢いにのる道三の軍の前には、こんな城はひとたまりもないようだったそこで道三の軍は「わあ...
View Article信長様とこじき
関ヶ原の山中には常盤御前の墓と伝えられる碑が立っている織田信長が岐阜城に居る頃京都への上り下りにここを通ると、いつも道端に体の不自由なこじきが居た雨が降る日は雨に濡れ、風が吹く日は風に晒され同じ所に座っている信長は不思議がって村の者を呼んだ「こじきという者は住まいを決めず物を求めて歩くのが普通だ、それをあのこじきはいつも同じ所に居る。何か訳でもあるのか?」と聞いた「はいはいあの者はこの村の中山という...
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